「月隠れ」

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 昼間の暖かさが嘘のように、夜更けの外気は肌に冷たかった。
 クリスはもう少し厚着をしてくるべきだったと後悔しつつ、上着の前を掻き合わせて、ぶるっと震えた。
 様々な人種が交じり合って暮らすビュッデヒュッケ城の雰囲気に慣れる間もなく、怒涛のように状況は変化し、やがて終焉を迎えた。倒すべき者を倒し、あらかたの事後処理を済ませた彼らには、我が家というべきブラス城への帰還が待っていた。
 その思いは、ゼクセンの騎士達を弾んだ思いにさせるのに充分だった。激しい戦闘を切り抜け、生き残った彼らは、明日の帰還を前に、そこここで酒宴を開いている。
 そのざわめきを遠く聞きつつ、クリスは城と接した船の甲板で一人、湖を眺めていた。
 湖上には、先刻から雲の間から見え隠れする満月の光が降り注いでいる。風もなく、穏やかな水面に自分の心を映して、クリスは昼間の出来事を思い返していた。
 日中、クリスは明日に控えたブラス城への帰還の為に、カラヤクランのルシアらとの今後の協議や、書面の作成に追われていた。その合間、一人になれる時間ができてほっと一息ついているときに、パーシヴァルはひょっこりクリスの前に現れたのだ。

「お忙しいですか、クリス様」
「見ての通りだ。まあ、仕方あるまい」
 クリスは目の前の執務机に積まれた書類の山を指し、肩をすくめた。パーシヴァルも同意を込めて微笑した。
「そちらの準備は終わったのか?」
「もう万全ですよ。部下たちも、明日には帰れるというので張り切って用意していましたし」
「そうだな。明日になれば、ここともお別れだ」
 クリスも、自分の居場所に戻れる嬉しさと、暫しの住処となった城への名残惜しさを交えて呟いた。
 そうですね、と頷いたパーシヴァルは、ところで、と普段と変わらぬ口調で話題を切り替えた。
「今のうちに、一度お話しておきたいことがあって来たのですが、聴いていただけますか」
「何だ?」
 クリスは何気なく視線を上げて、そこに予想外に真剣なパーシヴァルの眼差しを見つけ、内心でどきりとした。……まさか、と思った。
 態度は普段と全く変わらず、世間話でもしているかのようなさりげなさで、パーシヴァルは言った。
「ブラス城に帰還して、騒ぎが収まったら、騎士の位を返上しようかとしようかと思っているのですよ」
「……パーシヴァル……」
「今すぐにどうこう、というつもりはありませんが、いずれは、と。それで、クリス様には後任の人選を内々にお願いしておこうかと思った訳です」
 平静な様子のパーシヴァルから紡がれる言葉を聞きながら、クリスは自分の予感が当たったことを知った。
 クリスは数回深呼吸をした後、改めてパーシヴァルの顔を見返した。
「それで、その後のことは考えているのか?……村に、もどるのか」
 パーシヴァルの生まれ育った村は、シックスクランの襲撃によって壊滅した。再建は始まったばかりのはずだ。
 さほど驚いていないクリスの様子に、パーシヴァルは僅かに苦笑したようだった。
「解っていたんですか。私が、こう言いだすだろうと」
「いや……、そんな気がしただけだ」
「そうですか……。私が村に戻ったところで、剣しか振るえない男にどれほどのことができるかは分かりませんが、あそこには知り合いが多いのですよ」
「そうか……」
 クリスは暫し黙り込んだ。止めるべき理由はあっても、それを口にする必然はない筈だった。遅かれ早かれ、パーシヴァルであればそう言いだしていただろうと、クリスは理解していた。
「……分かった。この件はサロメと相談しよう。なるべく早めに、人選についても返答するから、それまでは他言は無用だ」
「了解しました。……よろしくお願いいたします」
 何か、かけるべき言葉を見つけようとして迷うクリスを、パーシヴァルは黙って見つめて微笑み、一礼して部屋から出て行った。

 クリスは長く吐息した。
 パーシヴァルの選択について、異議を唱える気にはならなかった。それなのに、気分が沈む。
 その後すぐにサロメと話し合ったが、サロメもこのことを予想していたようで、驚いた様子はなかった。慌しさ故に、詳しい話は後日となったが、他の六騎士達に話してみても、おそらくサロメと同様の反応が返ってくるのだろう。パーシヴァルの退団に、反対する理由はない、と。
 クリスは、自分の気持ちに戸惑っていた。はっきりと言葉に言い表せそうになかったので、サロメにも自分の心情を告げることができなかったのだ。
「さみしい……のかな、私は」
「私がいなくなるからですか?」
「なっ……」
 誰もいないと思って呟いた言葉に思わぬ返答があって、クリスは一瞬、その場に硬直した。
 恐る恐る、背後を振り返ると、すぐ側でパーシヴァルがこちらに笑いかけて佇んでいる。手には酒瓶を掴んでいた。
「……何故ここにいる?」
「何でといわれましても、月夜の散歩です。湖を見に来たらクリス様からいらっしゃるので、先ほどから声をかけても気づいていただけなかったのですが」
「そ、そうだったか?」
 クリスは自分の顔が熱くなるのを感じていた。衝動的にその場を逃げ出そうとして、パーシヴァルの差し出す酒瓶に、その動きを封じられた。
「せっかくですから、飲んでいきませんか。祝い酒ですよ」
「え……」
 パーシヴァルは、その端正な顔立ちに、深い笑みを刻んだ。
「ここで飲めるのも、今夜限りです」
 微妙な言い回しに、クリスは逃げ出そうとしていた足を止め、パーシヴァルの顔を見上げた。……考えるよりも先に、頷きを返していた。

「杯がなくて、申し訳ないんですが」
 そう言いながら封を切り、栓を抜いた酒瓶を、パーシヴァルは差し向かいに座ったクリスに向かって差し出した。
「別に、大丈夫だ」
 良家の子女たるクリスだが、男ばかりの騎士団で生活していれば、この程度のことは慣れている。受け取った酒瓶の口に直接口を寄せて、甘い香りを放つ液体を一口飲み干した。
「美味いな」
「ボルス卿から戴いたんですよ。この日の為の、とっておきの一本だそうです」
 クリスから返された酒瓶に、同じようにしてパーシヴァルも口をつける。
「そういえば、ボルス達とは飲まなくていいのか?」
「もう、先刻付き合いました。まだサロメ殿とロラン殿は飲んでるようですが、他は全滅です。いつまでも付き合っていると、私まで潰れそうなので、逃げ出してきたんですよ。
クリス様こそ、お一人で出歩かれるのは危ないですよ」
「ルイスが付いてくると言ったんだが、断ったんだ。明日は早いから早めに寝かせてやりたかったし、それに……」
 何気なく言いかけて、クリスは口を閉ざした。そのまま黙って、すぐ目前に見える湖を見やる。
「……それに、一人で考えたいこともあったんだ」
「何ですか」
 問い返したパーシヴァルの顔を見ず、クリスは呟いた。
「……お前のことだ」
「……」
 パーシヴァルは、黙って酒を飲み、クリスを見つめた。
 今、ここで口にするべきことではないのかもしれなかった。だが、クリスはこの城で過ごす最後の晩に、こうしてパーシヴァルと共にいることで、素直に言葉にしてみたい衝動に駆られた。
「考えても、上手くいえないんだが……」
 言葉を捜しながら、クリスはぽつりぽつりと話を継いだ。
「今まで、お前にはよく支えてもらったと思っている。未熟な私が、それでもなんとかやってこれたのは、サロメ達や、お前のお陰だと、私は誰に言われるまでもなく、知っている。……ただ、私はお前に頼りすぎたんじゃないかと思う。お前が去ると聞いたとき、私は……嫌だ、と思った」
 自分の気持ちに最も近い言葉を見つけたクリスは、その言葉の大胆さに気付き、うろたえた。
「何を言っているんだろうな、私は……」
 ずっと黙って話を聞いていたパーシヴァルは、困ったような微笑を見せた。
「クリス様、その言い方はまるで、愛の告白ですよ」
「えっ……、いや、私は……」
 クリス自身がそう感じたことを指摘され、クリスはますます動揺した。
 そんなクリスの様子を静かに見つめたパーシヴァルは、柔らかく笑み、全く違うことを口にした。
「そんな薄着で冷えませんか、クリス様」
「え、あ、ああ。そうだな、少し寒いかな」
 動揺したままのクリスが上の空で答えるのを聞き、パーシヴァルはおもむろに自分が羽織っていた上着を脱いだ。
「クリス様、これを。湖からの風は冷たいですから」
「あ、ああ……ありがとう」
 しかし、パーシヴァルはクリスに上着を手渡さず、腰を上げて立ち上がると、クリスの後ろに回って上着を着せ掛けようとした。
 パーシヴァルのされるままに大人しくしていたクリスは赤い顔を隠そうとして俯いていたが、肩に温もりの残る上着が掛けられた後、パーシヴァルの動きが止まったのに気付いて、肩越しに振り向きかけ……目を見開いた。
 漆黒の空に白く浮かび上がる雲がゆったりと流れ、満月がその端に隠された一瞬の出来事だった。
「パーシヴァル……」
 呆然として、クリスが呟くのを聞き、パーシヴァルは至近に顔を寄せたまま、低く囁いた。
「ご無礼を」
 すっと側を離れ、元の位置に戻って腰を下ろしたパーシヴァルは、クリスとは対照的に落ち着いていた。
「クリス様が、あまりに可愛いことをおっしゃるので、つい」
「つい……、ついって、パーシヴァル」
 思考のまとまらないクリスが呟くと、パーシヴァルは穏やかに笑んだ。
「私の誓いを、覚えていますか」
 クリスは、小さく頷いた。
「一度誓った以上、生涯有効ですよ。つまり、その逆はありえなくとも、私の命は、尽きるまであなたのものです」
 どう応えていいか分からず、クリスはパーシヴァルが着せ掛けた上着の袖を握り締めた。
「飲みますか?」
 差し出された瓶を掴んで、クリスは一気に酒を流し込んだ。甘味の強い液体が、強く喉を焼く。
「パーシヴァル、私は……」
 迷いながらいいさしたクリスの言葉を、パーシヴァルは自分の言葉で差し止めた。
「戻ってきますよ、クリス様。あなたが私を必要として下さる時がくれば、必ず」
 静かに、しかし言葉の底に意志の強さを込めて、もう一度繰り返した。
「必ず、です」
 いつもの自分では決して味わうことのない頼りない心地になっていたクリスは、パーシヴァルがそれ以上境界を踏み越えるつもりがないことを悟ると、思わず安堵の息をついた。
 先刻の一瞬、目の前の男はクリスの知らない一面を垣間見せたのだ。クリスはそれに惑い、その数秒の甘い感触に反応した自分を、これ以上さらしたくなかった。
 クリスはそっと訊ねた。
「……戻ってくるな?」
「お望みとあらば」
 迷いのない返答に、クリスはやっと不器用な微笑を見せた。
「何年かかってもいい、また戻ってきて欲しい。……待っているから」
 パーシヴァルは、黙ったまま微笑んだ。




・・・THE END・・・

・・・ここで終わりにしちゃうのもアレなので、余力があったら、もう一本書きます・・・。
たぶん、パーシヴァル視点で。
このこっぱずかしさは変わらないとおもいますが(笑)。